【雑記】マルコポーロの旅路の「黒ダイス」を想う。理性的に生きるために必要なこと。
■はじめに
今回は、ボードゲーム自体の考察というよりも、そこからの派生記事の色が強いので【雑記】としました。
先日、ボードゲーム界隈で少し話題となった出来事がありました。
名作ボードゲーム「マルコポーロの旅路」の出版元であるHans im Glück Verlagsが、ゲームに登場する黒ダイスが差別を連想させるとして謝罪しました。
●原文HP
Marco Polo - The Black Dice - News - Hans im Glück
●翻訳(グーグル翻訳を手直ししたものですので拙いですがご容赦ください)
マルコポーロの旅路-黒ダイス
02-08-2021マルコポーロの旅路シリーズに黒ダイスが含まれており、それらのゲーム中のどのように取り使われるかについて、プレイヤーからいくつかのフィードバックを受け取りました。意見をくれてありがとう!これらの質問に公式に回答したいと思います。ワーカープレイスメントなので、黒ダイスは「ブラックワーカー」と見なすことができ、テーマ的にはワーカーは人と見なされます。プレイヤーは黒のダイスを購入するためにリソースを費やしますが、「黒人労働者の購入」は明らかに正しくありません。黒のダイスは、ゲームの初期のプロトタイプで使用され、「ワイルド」(ジョーカー)サイコロとして機能しました。これらのワイルドダイスは追加のアクションを可能にするだけでなく、プレイヤーの色とは関係がないため、ワイルドダイスはゲームで最も価値のあるダイスになります。デザイナーは、ワイルドが明らかにニュートラルであり、プレーヤーの色と永続的に関連付けられていないことを強調したかったので、プロトタイプでワイルドとして黒のサイコロを使用することを選択したと思われます。また、デザイナーはプロトタイプコンポーネントの供給が限られていることが多いため、プレーヤーカラーを超えて、彼らが使用するのに十分な色のダイスが黒ダイスだけだった可能性があります。もちろん、最終製品に基づいて、ゲームが開発サイクルを経たときに、私たちはそれらのサイコロの色を変更しませんでした。 これは出版社としての私たちの責任であり、私たちが考慮しなかったこの見落としについて心からお詫び申し上げます。これは私たちの間違いであり、残念ながら、サイコロ自体からアイコンまで、2つの基本ゲーム、拡張、およびいくつかのミニ拡張に至るまで、製品ライン全体で完全に使用されています。ただし、ゲームの新しい印刷がある場合は、ワイルドダイスを別の色に変更することをお約束します。もちろん、新しいゲームや将来のHans im Glück gamesの再版については、より注意を払い、二度と起こらないようにします。
●Table Games in the Worldの記事
ハンス社、『マルコポーロの旅路』の黒ダイスについて謝罪 – Table Games in the World
■今回の騒動の前日譚
先月(2021年1月)、マルコポーロの旅路のデザイナーの一人であるダニエレ・タシーニが差別的な発言を行ったとして、Hans im Glück Verlagsは以降、ダニエレ・タシーニの作品を制作しないことを発表しました。
●Table Games in the Worldの記事
ボード&ダイス社・ハンス社がタッシーニ氏打ち切り 差別語使用で – Table Games in the World
今回の記事では直接言及されていませんが、可能性がないとは言い切れません。
■適切な配慮?自由な表現への抑圧?
皆さんは今回の騒動をどう思いましたか?
Twitterでは「配慮が過剰すぎる」 との声が多かったように感じます。
僕自身の意見としては「わからない」ですし、答えが出せるとも思いません。
マルコポーロの旅路をプレイしてて黒ダイスが黒人労働者だと思ったことはこれまで一度もありませんが、指摘されてみればそう感じられるような気もします。
理性的な社会が実現されることを心から望みますが、そのために表現の自由が侵害されるのは本意ではありません。
どちらの意見も一理ありますし、結論の出し方は各々次第だと思います。
ただ、「Twitterでは配慮が過剰すぎるという意見が多数だからそう思う」ではなく、自分で考えてみることは大切かなと思います。
■映画「パルプ・フィクション」のラストシーンに見る理性的に生きるために必要なこと
クエンティン・タランティーノ監督作「パルプ・フィクション」 という作品があります。
作品内の時系列がぐちゃぐちゃになっていることで有名な作品ですが、僕はそのラストシーンが大好きです。
殺し屋である主人公ジュールスがファミレスでカップルの素人強盗(パンプキン)に巻き込まれます。
そして、銃を突き付けられますがジュールスは隙をついて形勢逆転し、逆にパンプキンに銃を突きつけます。
普段であれば短気なジェームスは強盗達を撃っていたでしょうが、この日九死に一生を得て何かを感じ、足を洗おうと思っていたジュールスは銃を下げます。
その際のシーンは以下の通りです
ジュールスは、パンプキンに財布を取り出させ、その金1500ドルを与えた。そして、「この金でお前の命を買ったんだ」と言った。そして、聖書エゼキル書25章17節を唱える。
"心正しい者の歩む道は、心悪しき者の利己と暴虐で阻まれる。愛と善意をもって、弱き者を導く者に祝福を。彼こそ兄弟を守り迷い子を救う者なり。私は怒りに満ちた懲罰をもって兄弟を滅ぼす者に復讐をなす。彼等に復讐をなす時、私が主である事を知るだろう。"
今までは冷血な文句として殺す場で使っていた。
今朝いろいろあって、その意味を考えた。
貴様が心悪しき者で俺が正しい者。銃を構えているアイツが悪の谷間で俺を守る羊飼い。
あるいは貴様が心正しい者で俺が羊飼い、世の中が悪で利己的なのかも。そう思いたい。
しかし真実じゃない。真実は貴様が弱き者、俺が心悪しき暴虐者だ。だが努力はしている。羊飼いになろうと一生懸命努力している。
(引用元:https://www.reviewanrose.tokyo/article/449999729.html)
主人公が自分が"正しきもの"ではなく"ただの暴力的な支配者"だと認め、それでも羊飼いになろうと努力するのだと説くのです。
僕がこのシーンにひどく感動するのには理性的に生きる為に必要なことの本質が詰まっているように感じるからです。
ここから読み取れる理性的に生きるために必要なことは、「理性的に生きようとすること」なのではないでしょうか。
当たり前のことに聞こえるでしょう。しかし、心の芯から理性的な人間など存在するのでしょうか?
どんな立派な人でも本能的に差別的な嫌悪をしたり、ステレオタイプにハマった思想がふとした瞬間に脳をよぎるのではないでしょうか?
そういった瞬間に直面したときに「理性的に生きようとすること」こそが理性的に生きることに繋がり、さらには理性的な社会に繋がるのだと思います。
■現代の当たり前、次世代の当たり前
現代日本では誰でも自由に職業を選択でき、自由に結婚できます(結婚しないことも選べます)。性別・年収に関係なく一定の年齢になれば選挙権を得ることができますし、立候補することもできます。これは当たり前です。それと同じように、黒人だからと言って人身売買されることも当たり前にありません。これは先人たちがより理性的な社会を作ろうと意識的に行動してきた結果であると思います。もちろん、それもまだ道半ばで、ステレオタイプに縛られた差別的な目線がいたるところにあります。これらも、「理性的に生きようとする意志」により変わっていき、時代が進むごとにまた次の当たり前の視点が生まれてくるでしょう。
■おわりに
さて、話をマルコポーロの旅路の黒ダイスに戻しましょう。
ダイスワーカープレイスメントにおける「黒ダイスの購入」は「黒人の人身売買」を連想させるので排除すべきなのでしょうか?
僕の結論はやはり、「わからない」です。