ボードゲーマーにおすすめの「物語化批判の哲学」(+「ジョーカー」とは何のヴィランなのか?)

■自分と「物語」
日々生活する中で、「人間って"物語"を信用しすぎてないか?」と思う場面が多いです。
代表的な例は、採用面接でしょうか。
「自己分析」という名のエピソードトークの掘り起こし作業を経て、これまでの自分の人生に一本軸を通すような物語を構築することを強いられます。
私が大学を卒業して就職活動をしていたのは10年以上前ですが、資格習得を軸にした今振り返るとなんとも貧弱な「物語」を面接の場で披露し続けて、一次面接で落ち続けていました。
ただ、採用面接で「物語」を語らせるから、採用面接では志望者の能力を何も見定められていない!と言うつもりはありません。
なぜなら、採用され、実際に働く場でもこの「物語」を構築する能力が求められる場面が多々あるからです。
物語を語らせるから本質を見定められないのではなく、物語を紡ぎ・語る能力こそが「仕事の場」(特に、営業・企画プレゼンの場)ですら強く求められるのです。
そして今、最近、会社で採用面接を担当しているのですが私自身も採用候補者に物語を求めています。
■「物語化批判の哲学」
この、"物語"の魔力に関していつか文章にまとめてみたいなと思っていたのですが、先日(2025年7月)出版された「物語化批判の哲学 <わたしの人生>を遊びなおすために」(難波優輝さん著)が素晴らしく、自分のモヤモヤと考えていたことが明瞭に、深く、多角的に語られていました。SNSから流れてくる物語に加工された「現実」に感情をハックされ、民主主義の根幹が揺るがされている現代に、是非読んでおきたい一冊です。
「物語化批判の哲学」では、「物語」以外の人生や自己理解の方法として、他の「遊び方」を探求しており、「ゲーム」や「ギャンブル」についても紙幅が割かれているので、ボードゲーマーにも非常におススメです。
(特に、自分はかねてから麻雀の魅力は「確率という抽象的だが確かに存在する概念に生に近い状態で触り、理解しようとする感覚」なのですが、それに近いことが紹介されていて唸りました。)
そういった名著がありながら自分の言葉で語りなおすのもどうかと思いますが、物語について考えるきっかけになる映画を二作紹介いたします。
■なぜ"胸糞映画"の代表作なのか?「ファニーゲームU.S.A」(ネタバレ有)
一本目に紹介するのは、ミヒャエル・ハネケ監督作「ファニーゲームU.S.A」です。
「胸糞映画」として紹介されることが非常に多い作品です。
あらすじは、休暇に別荘にやってきた一家に隣人二人組が訪ねてきて一方的な暴力が始まるという不条理劇です。
この映画では、我々が「物語」を見るときに期待している出来事を逆手に取っています。
「隣人の暴力の理由が種明かしされるであろう」「子供は最後まで生き残るはずだ」「犯人にはふさわしい罰が下されて欲しい」
そんな観客の思いを嘲笑うかのように物語は進んでいき、そのまま隣人二人組は一方的な暴力を完遂して終幕となります。
隣人二人組がカメラに向かって話しかけたり、画面が巻き戻ったりとメタ演出がちりばめられています。この演出により自分が「物語を見ている観客」(物語に期待している観客)であることをより強く自覚させられます。
この物語が「胸糞映画」の代表作であるのは、それだけ私たちが「語られるべき物語」を共通認識として持っていることの裏返しでもあると言えます。
■映画「ジョーカー」のラスト「理解できないさ」(ネタバレ有)

二作目に紹介するのは映画「ジョーカー」です。
DCコミックスを代表するヴィランでバットマンの宿敵であるジョーカーですが、彼は出自を持たない悪として描かれることが多いです。
ノーラン監督版バットマン二作目の「ダークナイト」では、指紋なDNA、住所もすべてなく、本人が語る出自もその都度適当なホラ話です。
一般的に、悪役の過去を描き、その行動に説得力を持たせたり、観客の同情を誘ったりするのはよくある手法です。(もちろん、悪役に限りませんが)
目下映画が大ヒット中の鬼滅の刃でも、人間が鬼になるに至ったその悲惨な過去シーンが非常に多く挟み込まれます。
当たり前のように受け入れている演出ですが、よく考えてみると「物語」の真実味を増すために、その中でさらに「物語」を語るというのはトートロジー的だなと思えてしまいます。
それに対してジョーカーは、そんなバックボーンを持つことを否定したアンチ物語のヴィランであると言えます。
映画「ジョーカー」では、そんなジョーカーが誕生するに至った経緯が語られます。
貧困・精神疾患を抱えながら高齢の母親と二人暮らしをしながらコメディアンを目指していた主人公ですが、予算不足によりカウンセリングや薬の処方が止まり妄想が激しくなっていきます。
物語が進むにつれ自分の悲痛な出自を知り絶望した彼は、人気番組の生放送で司会者を殺害し、それをきっかけにゴッサムシティでは暴動が至る所で発生。
暴徒たちからカリスマとして崇められ主人公はヴィラン「ジョーカー」となります。
「アンチ物語」のヴィランである「ジョーカー」の出自が湿っぽく語られましたが、この映画はここで終わりではありません。
ラスト3分は主人公が取り調べを受けているシーンに切り替わります。
主人公はタバコを吸いながら笑い、「何故笑っているの?」と聞かれ「ジョークを思いついた」と答えます。
この場面は、直前のジョーカー誕生のシーンと繋がっているよう(暴動から逮捕されたシーン)にも思えますし、そうでないよう(これまでのシーンは取り調べ中の妄想だった)にも思えます。
そのジョークを「聞かせて」と言われた主人公はこう答えます。
「理解できないさ」
この一言で、この映画は完璧なアンチ物語のヴィランたる「ジョーカー」の映画になったと思えます。
すべてホラ話で、何故そんな嘘をつくのか、何を面白がっているのか、その理由は誰にも推し量れない。
「物語」を信用し過ぎる民衆に、理解を拒絶し、わかりやすい悲劇的な人のバックボーン(物語)を知って何か理解したような気になるなよ、そういっているように私には思えました。
ただ、この映画がヒットして、現実ではジョーカーの虚構(ジョーク)の部分を模範した皮肉すぎる犯罪が起きてしまいました。人間はどこまでも物語に突き動かされてしまうのでしょうか。
■おわりに
映画の紹介が長くなってしまいましたが、「物語化批判の哲学 <わたしの人生>を遊びなおすために」はボードゲーマーなら必ず楽しめる本だと思います。
自分が「遊び」のどの部分を面白がっているのか、今一度考えるきっかけになる本だと思います。ボードゲームデザイナーを志す方にも参考になるのではないでしょうか。