がりがりボードゲームおかわり

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2021年の「ユーモア」とは何だ?

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■「面白い」とは一体何なんだ?

先日、とある大喜利ボードゲームを遊びました。

不謹慎をテーマしたかなりざっくりした自由度の高い大喜利ゲームでしたが、正直盛り上がりに欠けました。

一方、ワードカードによる縛りのある「たった今考えたプロポーズの言葉を君に捧ぐよ」は毎度安定した盛り上がりを見せます。

また、配信を楽しみにしているAmazonオリジナルコンテンツ「ドキュメンタル」に関しても私がとても面白いと思った件(くだり)がコメント欄やネットの書き込みなどで「面白くない」と一刀両断されている場面もよく見かけます。

さらに、「ドキュメンタル」は同じルールでメキシコ版も配信されているのですが、こちらを鑑賞してもあまり楽しめませんでした。

今回は、人とコミュニケーションを取る限り一生関わっていく「面白い・ユーモア」に関して最近メディアで発信された情報の断片から考えてみたいと思います。

まとまりのない文章になりますが、その断片から複雑な「面白い」の本質に少しでも触れることができればなと思います。

 

■「面白い」の構造

一般的に人が面白いと思わせ笑わせる構造は「緊張と緩和」であるとか、「予想を裏切る」ことであると言われます。
これは正しいでしょう。経験則として、冗談を言うとき、「普通言いそうな事から"1歩半"ズラす」と人は笑ってくれるような気がします("1歩"ズラすだけだと陳腐で愛想笑いしか引き出せませんし、"2歩"ズラすと荒唐無稽すぎて笑ってもらえません)
また、冒頭で上げた不謹慎をテーマとした自由度が高い大喜利ゲームがあまり盛り上がらなかったのは、
・自由度が高い→縛りがないので裏切りにくい
・不謹慎をテーマにしている→そもそも普通なことを言わないことがテーマになっているのでそれだけで裏切りにならない(不謹慎が前提であることを逆手にとって、品行方正なことを言った方がウケるという逆転構造になってしまっている)
・回答に対する補助がないので、ハードルが高い→ガチの大喜利のような発想力が求められる。しかし、お題カードは大喜利向けではないので答えにくい。
といった要因が考えられます。
逆に、「たった今考えたプロポーズの言葉を君に捧ぐよ」が盛り上がるのは、
・プロポーズという普通人生でも指折りの緊張する場面をテーマにしている→緊張が緩和しやすく、裏切りやすい
・ワードカードがある→縛りの中から通常発想できないようなフレーズがカードが補助輪の役割を果たしつつ飛び出す面白さや、ワードカードを(カードを隠して使ったり縦にして使ったり)アクロバティックに使う面白さがある

といった要因が考えられます。 

 

■「スタンダップコメディ特集」から本質を読み解く

先月、アフター6ジャンクションの番組切り抜きPodcastで配信されたアメリカのスタンダップコメディにまつわる<誤解>を解く!特集 by Saku Yanagawa」を拝聴しました。

日本人が抱きがちな「スタンダップコメディへの誤解を解く」ことを目的にした特集ですが、その中で語られた内容に「面白い・ユーモア」の本質の一端があるように感じましたので、備忘録としてまとめます。

①ユーモアはそもそもローカルな物

受け手と共有している文脈のギリギリを攻めるのがコメディであるので、地域・場面・状況などが異なるユーモアに優劣を付けることはできない。

②どの国でも「外国のお笑いはフィジカルだと語られる」

海外のお笑いを思い浮かべた場合「顔芸やずっこけ」など見た目に対するお笑いをイメージしやすいです。実は、海外から見て日本のお笑いも「極めてフィジカルなものだ」と語られるそうです。結局、理解できない文脈はないものとされて語られがちなのです。

 

■進む(変化する)文脈

上記の通り、「面白い」には皆で共有している文脈が大切です。

私がメキシコ版ドキュメンタルを見てもそれほど笑えないのは、メキシコ人と共有している文脈がないからだと考えられます。

近年では急速にポリティカル・コレクトネスへの意識が世界的に高まってきました。

一昔前なら「面白い」と捉えられていた冗談もモノによっては社会的に叩かれ仕事を失うようなケースも出てきています。

最近の象徴的な事例を2つ挙げます。

①「東京大会開閉会式演出統括の佐々木宏氏の差別的演出案流出による辞任」

日本で数多くの仕事を手掛けて生きた佐々木宏氏が約1年前に開会式の演出案として「渡辺直美に豚の格好をさせる」という発案をLINEで行ったことが流出により発覚。

これにより佐々木宏氏は辞任しました。

発案自体は心底面白くなくかつ差別的で、万が一これが五輪開会式という場で実現されたら日本の世界での地位を大きく貶める結果になっていたでしょう。

しかし、「約1年前」の「内輪のLINE」が「流出」したことによって辞任にまで追い込まれるということは、少しディストピア的な怖さも感じます。(もしかしたら流失させた人の思い通りの結果になっているになっているのかもしれません。)

また、難しいのは渡辺直美氏は過去に自身の容姿をネタに笑いを取っていたこともありますし、豚のふん装をしていたこともあります。

 ここら辺はやはり、日本で共有している文脈の変化によるものなのでしょうか。

あと、一般的に言われる「面白ければ良い(許される)」といったところも少なからずあると思います。(もちろん、その"面白い"は時代にそぐった文脈に乗っ取る必要がある)

②「"三時のヒロインが容姿ネタを封印"に対するワイドナショーのコメント」

お笑いトリオ「三時のヒロイン」が容姿ネタを封印することを発表。その理由としては「どんどんウケなくなってきた」とした。

これを受け松本人志氏は「ネタはプロ(芸人)の世界でやっていることはプロ同士だからほっといてほしい」とコメント。

EXIT兼近氏は「若い世代は年上世代に迎合するために容姿ネタをやっている」としつつも「プロのお笑いはサーカスだから危険行為も成立している。だから素人がマネすると怪我をしてしまう。お笑いは変わらないでほしい」とし、さらに「お笑いは免許制にすればいい」と発言しました。

こちらも上記と同じく、「容姿ネタ」に対する事例です。

お笑い芸人として「ウケなくなってきたから」容姿ネタを封印するというのはものすごく自然な流れです。まさしく「面白ければ良い」にも反しています。これはそういうものが面白がってはいけないという世界で共有している文脈の進歩(変化)の結果と言えます。

松本氏も兼近氏も「プロ同士のお笑いは合意のもと行っているからOK」というスタンスですが、それも時代の変化によりウケなくなったら"(観客に披露する)プロであるからこそ"辞めざるを得ないでしょう。

 

■あまりにも難しすぎるOKの線引き

上記の通り、現在はかなり容姿に対するネタに対する風当たりが厳しくなってきました。

他人に対する攻撃的な言葉だけでなく、同じコンプレックを持っている人を傷つけるという意味では「自虐」もNGになってしまうでしょう。

これをどこまでOKなのか、と線引きすることは不可能であると思います。

例えば、「飲食店での変な店員のコント」をやっても「病気などの理由があって飲食店の店員業務をこなせなかった人」を傷つける可能性はあります。

すべてをケアすることなど不可能に近く、ならばお笑いという文化、もっというなら「面白い」という表現自体を規制することになりかねません。

それはあまりに極端で、誰も望まない結果でしょう。

 

■「面白い」とは固定の形のないもの

以上から、「"面白い"とは絶対的なものではなくその場・その時代(瞬間)によって異なる常に変化しているもの」であると考えられます。

その時はとても面白く大笑いしたのに、後から振り返ってみると何が面白かったのかよくわからない、という経験は誰しもしたことがあるでしょう。

特定の状況が来たら毎回テープレコーダーのように同じような冗談を繰り返す中年にならないためにも、日々頭を使って「面白い」ことを考えていきたいですね。

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