ボードゲームコミュニティへの祈り
■ボードゲーム会の「あるべき姿」とは?
先日ボードゲームで出会う人々に対して語り合うネットラジオを拝聴しました。
内容は共感できる部分が大半でしたが「その目線は厳しすぎるんではないか」と思う部分もありました(メンバーのバランスがよく、厳しすぎる目線への指摘もラジオ内でありました)。このラジオを聴いてから「ボードゲームコミュニティ」、ひいては「大人になってからの趣味のコミュニティ」について考えています。
以前、ボードゲームの魅力の一つは「対面に人がいる」ことだと書きました通り、対面に人がいるからこその人間関係のトラブルも付きまといます。
そのラジオでもそうだったのですが、ボードゲームをやりに来ているのだから「ゲームを純粋に楽しむことに専念すべき」というボードゲーム原理主義な思想が優位を占めている気がします。
一般的に、指摘されるようなトラブルは男女関係のものや、自意識が原因とした立ち振る舞いに関するものが多いような気がします。
しかし、ボードゲームきっかけで付き合ったり、結婚した人を何人も知っていますしそれらは否定されるべきものではないでしょう。
どこまでが正当なアプローチで、どこからが迷惑行為なのか、線引きはかなり主観的で難しいものだと思います。
他人に危害や恐怖を与えるような言動はもちろん許されませんが、自信のなさから来る保険的な発言や多少「ちやほやされたい」など自意識が垣間見える程度の行動には寛容でありたいと個人的には思います。
これは私がボードゲームの魅力に、"ボードゲーム自体の面白さ"と同じくらい"コミュニティを築く力があること"だと考えているからです。
■ボードゲームコミュニティが受け皿となる
私の思うボードゲームの良さは、始めるハードルの低さにあると思います。
所謂重ゲーはゲーム慣れをしていないと難しいですが、パーティゲームならば大抵の方は楽しむことができます。
「なにか趣味を始めたい」となった時に、思ったよりも難しくすぐに投げてしまった経験がある方は多いのではないでしょうか。ボードゲームその最初の躓きが少ないように思えます。
とは言っても、ボードゲームを「趣味」というくらいにのめり込む方には、昔からのテレビゲーム好きであったり、頭を使って考えるのが好きといった資質があると思います。
特に、平成初期の生まれでゲームセンター文化も廃れた世代の昔からデジタルゲームを家で一人で遊んでいた人は、ネットでコミュニティを作ることはあっても今まで「対面でのゲームのコミュニティ」を持っていないことが多かったのではないでしょうか?
ボードゲームは家で一人で遊んでいるだけでは繋がらなかったそういった人たちの対面でのコミュニティの受け皿としての機能を果たしている気がします。
■複数のチャンネルを持つことの大切さ
私が傾聴するTBSラジオ「アフター6ジャンクション」の6月3日のオープニングトークで、以前「40歳くらいになってから若い頃より生きやすくなった」と語った宇多丸さんに対するリアクションメールとして「人生をそれなりに歩んできたにも関わらず常に鬱屈感に苛まれ、生まれてこなければよかったと思ってしまう」という29歳のリスナーからのメールが読まれていました。
※Spotifyサイトに飛ぶと全編無料で聞けます。
そのメールに対する宇多丸さんは「年を取るにつれて自分に対するコントロールと納得度が増してくる」「自分の気持ちの落としどころを見つけられる」「他のいろんな人生を知ることで多角的に考えることができる」「複数のチャンネル(複数の趣向、人間関係)を持つことが大切」など、加齢による「生きやすさ」に関して語りました。
ここで語られていることに通じますが、「学校」「職場」「家庭」だけに縛られず複数のコミュニティを持つことも大切なことだと思います。
それにより、1つのコミュニティに依存や執着せずに生活ことができ、1つのコミュニティへ費やす時間は減るかもしれませんが結果的によい人間関係を結べるのではないかと思います。
■「現実社会化するネット」でコミュニティを見つけることの難しさ
高橋源一郎・著「「ことば」に殺される前に」という新書で、かつては夢中になったTwitterを更新する頻度が落ちた理由が次のように語られます。
かつて、ツイッターは、中世のアジール(聖域)のように、特別な場所、自由な雰囲気が感じられる場所であるように思えた。共同体の規則から離れて、人びとが自由に呼吸できる空間だと思えた。だが、いつの間にか、そこには、現実の社会がそのまま持ち込まれて、とりわけ、現実の社会が抱えている否定的な成分がたっぷりと注ぎ込まれるような場所になっていた。
(出典:高橋源一郎 「「ことば」に殺される前に」,河出書房新書,2021年5月,15ページ)
かつては、Twitterでただ生まれ、消えていく膨大なその「ことば」に「社会に生きる人々ひとりひとりがこのような「ことば」をもっていたのか」と面白さを感じていたが、ただの「現実社会そのもの」になってしまったTwitterに関心を失ったことが記されています。
最近は特に、公式クライアントでは、フォロー関係なく関心がありそうなことを(広告も含め)Twitter側が選別し表示されたり、他人にツイートが表示されなくなるシャドウBANがある一方、オープンなアカウントにはいかがわしいDMが山のように届きます。善し悪しはあるにせよ自由からは程遠く、効率化社会の「最適化(Twitter社の最適化・悪徳業者の利益行動としての最適化)」の波に漏れず飲み込まれているという印象があります。
これはもちろん、Twitterに限ったことではなく、Google検索の表示内容にも言えます。
映画やドラマの感想のブログを読もうとしても、SEO最適化されたブログにサブスクの広告が貼り付けられたあらすじの羅列しか表示されず、「生身の人が書いた感想」を読むためには信頼できるブログのリンクを辿るなど検索に頼らない方法を取る必要があります。
同じように、ネットで知り合いのつてなしに「趣味のコミュニティ」を探すのはほぼ不可能と言ってよいような状況にあると思います。(私自身も読書サークル、映画サークルを探しましたが無理でした)
ネットで外に開いている趣味のコミュニティは、大抵はその後ろにネットワークビジネスの影があります。そもそも、趣味のコミュニティはメンバーが揃ってさえいれば新規メンバーを集めることのリスクの方が多いので、当然とも言えます。
ネットのおかげで人々は簡単に繋がることができるようになったはずなのに、最適化し社会化したネットでは現実と同じく対面で会えるような趣味の仲間を見つけるのは難しいように思えます。
■ボードゲームコミュニティ、そしてオープン会に対する祈り
ボードゲームコミュニティはどうでしょうか?
冒頭でも紹介したネットラジオでも語られていましたが、ボードゲームは元々日本では趣味としての規模が小さいが故にネットで仲間を見つけてリアルであって遊んでいた名残があり、現在でも「オープン会」「クローズド会」という分類がある珍しい趣味です。
私が住んでいる田舎の方では、まだネットワークビジネスへは自治で対処して、ボードゲーム は「多くの人に開けた趣味」であり、いろんな年代のいろんな人がいる豊かなコミュニティであると思います。
ネット(Twitter)でみんなに開かれた「オープン会」の募集があり、誰も知り合いがいない一人でも気軽に参加することができます。そこで出会えるのは近所に住んでいて、ゲームが好きな人たちです。もちろん、そこで怪しい洗剤を勧められることもありません(参加する会を間違えると、勧められます。)
これは私が思うボードゲーム最大の素晴らしい点だと思いますし、どうかこれからもそうであってほしいと祈っています。